千葉市中央区 登戸1丁目公園 は昔は海でした 記念発見

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すぐ近くに、千葉駅でそごうデパートなどでにぎわっている

こんなに、静かな公園を発見。

 

「登戸1丁目公園」 よくある公園に記念碑がありました・

 

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海の波に船が浮かんでますよ・・・

 

完成記念碑

 

何かな??

 

 

 

 

 

 

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五大力舟(由来)

この地登戸は、江戸時代から明治末期にかけ房総半島から、江戸、横浜への物資の流通拠点として、海運業、問屋業が栄えた港町であります。

 木造形は、当時海上運輸送で活躍した五大力舟などの大型帆船を形どったもので、登戸船とも俗称され最盛期には80隻を数え、江戸の朝市場に間に合わせるため夜間に航行する等、海上輸送の花形として活躍したものであります。

 

 

 ここは、海だったんですね・・

埋め立てして、現在の公園となってます

 

 

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ブランコもあり、のどかな公園ですよ 

 

 

 

 

 

 

 

五大力船のウンチク

江戸を中心として関東周辺の海運に小廻しの廻船として活躍していた船です。
市原の江戸湾沿岸には八幡・五井・姉崎・青柳・今津・椎津の湊があり、内陸部から川舟や馬背で運送されてきた年貢米をはじめ薪炭・材木などがここで「五大力船」に積み替えられて江戸へ送られました。江戸からの戻り船には衣糧・雑貨・肥料・砂糖・醤油・酒などが積まれました。
船は、長さ31尺(9.4㍍)から65尺(19㍍)、巾8尺(2.4㍍)から17尺(5.1㍍)、50石から500石積みの帆船でしたが、海上からそのまま河川に入れるよう一般の廻船より細長く、喫水(きっすい:船底から水面までの長さ)が浅い船型でした。
江戸時代には、こうした海川両用のため、川舟と同様に年貢銭賦課対象とされていた。
『五大力』の名は、重い荷物を運ぶので『五大力菩薩』からとったとされている。
上は『五大力船(若宮丸)の模型』:姉崎小学校 蔵

江戸への廻船として『押送船(おしおくりせん:市原地方では"おしょくりせん"とも言う)』もあった。これは帆走は五大力船と同じだが、五大力船より小型で細身の流線型をしており、櫓を使いより早く江戸に着くことができた。船槽に海水を注入できる生簀が設けられており、漁獲物、特に鮮魚の搬送に利用された。

千葉港
 大正時代の都川河口付近です。五大力船やはしけが見えます。登戸港や寒川港で五大力船からはしけに荷物を積み替え、都川を上り下りしていました。各地で道路整備が進み、鉄道網も広がりを見せていましたが、江戸時代からの船運もまだまだ盛んで、登戸港や寒川港は活気に満ちていました

 

 

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このページは、ルンルンが2009年7月22日 22:42に書いたブログ記事です。

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